四川大地震からの知識
出所: 中日传播网 作者:中日传播网 更新時間: 2008-10-21 0:00:00
今回の大地震は一つの地域を根こそぎ破壊する苛烈なものであったが故に、その救助?支援?復興過程につき、現地の様子とともに、地震発生のメカニズムから救援体制、更に、被害から垣間見られた様々な社会的?制度的問題点、又今後の社会や人々への影響に至るまで、膨大な報道や調査?評論が行われ、巨大な知識として国民の中に広く吸収された事が大変に大きな特徴となった。
プレートの運動
何故ここで地震が発生したのか? インド洋プレートとユーラシアプレートが衝突し、そこで隆起したチベット高原が東に押し出され、四川盆地の地盤と摩擦して形成された龍門山断裂帯の、北川―映秀大断裂に蓄積されたエネルギーが放出され、地層が大きくずれた為であると説明される。
これまで一般的にそれ程聞きなれなかった“プレート”が一躍常識のようになったが、地震や火山の原因としてプレートテクトニクス理論が提示され公認されたのはそれ程昔ではなく、ほんの40年前、1960年代以降のことである。地球の表面の皮にあたる地層とその下の固形物は厚さが100kmほどあり、地球表面全体で12個ほどの板状の塊に分かれ、内部の流動性ある物質の影響を受けて1年間に数センチメートル程づつそれぞれが動いている。そのプレート同士の摩擦?衝突面で山脈や地震帯?火山が生起する。ヒマラヤの形成が始まったのは5000万年前、龍門山断裂帯は3000万年前頃からとされる。

それでは、地震のメカニズムが理論的に解明され、特に唐山大地震以来地震予知に力を入れて来た筈なのに、今回は全く事前に何の警告も無かったのは関連当局の怠慢では無いかとの疑念も広く出されている。しかし、人類の足元にある地球についての詳細は実際には科学的に未だ殆ど解明されていないのが実情のようである。地殻の内部を直接調べる為に掘った最も深い井戸でさえ1万メートル程度に過ぎない。地球内部と連動しているプレートの具体的メカニズムを解明するには程遠い状態と言わざるを得ないのである。
龍門山断裂帯周辺で、今回のように大きな地震が発生したのは大凡3000年程前と推定されており、中国でも辺境にあたるこの地域の事で確たる歴史的記録や記載がある訳ではなかった。従い、誰もがこの地域でこれ程の大地震が発生するなど考えもしていなかったのが実情であろう。阪神大震災の際も、それまで兵庫県は日本の中では地震が大変少ない地域とされ、神戸の活断層の上に地震対策も薄弱な建築物が密集して建てられていたのに似ていると言えよう。
校舎の倒壊
地震の予知そのものが大変に難しく、又中国での地震の経験は、1976年の唐山大地震以後発生した数回の比較的大きな地震でも、被害の規模は死者が数十人、数百人で、発生地域も地震が頻発する西部の辺境な地帯に納まっていた。従い、SARSの発生以降国家の突発事故緊急対応策が練り上げられ、地震についても対応マニュアルが作成されてはいたものの今回程の大地震発生が現実には考えられてはおらず、まして四川省のこの地域で発生するなど殆ど考慮されていなかったのが実態のようである。
今回の地震被害の中で特に人々の目を覆わせる事態は学校であった。周囲の多くの建築物が無傷で残ったような場所でさえも、小中学校の校舎が狙い打ちをされたように倒壊し、授業中の生徒が瓦礫に埋まり、全校やクラスの過半の生徒が命を失うような事態が、被災地域の殆どの場所で発生した。いたいけな子供達の累々たる死体の列、救援も間に合わず息絶えて行く子供達、悲痛な親達の叫びが、全国民の心を揺り動かしたと言っても過言ではない。勿論、その中での劇的救出や生徒を庇って犠牲になった先生達のエピソードが、全国民に深い感動を与えた事も確かである。

それでは何故校舎ばかりが崩れたのか? “おから工事”との指摘が多い。しかし、個別の建設業者と役人の汚職による“おから工事”だけであれば、犯人と責任者を割り出して追求して行くことで一つの決着をつける事も可能である。ところが、この殆ど全てと言っても良い程普遍的に校舎の倒壊が発生したことは、既に問題が個別の事象ではないことを示しており、事態は“おから工事”問題より深刻と言えそうである。
中国政府では、農村部を中心に通常の状態でもひび割れが発生するような危険な校舎が多いことから、2001年に全国的に危険校舎の改造を呼びかけ、一定の予算措置も講じたりしていた。しかし、これが実効性を得るには行政的に幾つもの歪みが存在していた為に有効な対策とはならないままであった。
一つは、1980年代以降、小中学校への入学を促進する政策が全国的に展開された一方、中央政府の財政を強化する為の税制改革が行われ、実際に小中学校を建設し運営する地方末端に十分な資金が無いと言うギャップが生じた。その中で出来るだけ安く多数の校舎を建設維持する方向へ各地方が動き、その結果が危険校舎問題ともなったのであるが、このギャップの解消が無いままでは危険校舎の改造も根本的には進まなかったのである。第二は、校舎の建築基準なり工事の品質監督について、学校の所管部門である教育部と、建築全般を所管する建設部、地震に関する所管部の国家地震局など、縦割り行政の間での調整や連携、或いは必要な詳細研究が十分されていなかったことである。通常の建築物と異なり、窓部分が広いとか生徒が多数いて重量がかかるとか、避難時に重量が一カ所に過度に集中するとかの要因が校舎建築基準に十分反映されていなかったようである。加えて校舎完成後の建築検査も建築専門の第三者が行うのではなく、教育機関関係者自身が行うシステムになっていたとの事である。第三に、政府部門として国家地震局はあるものの、政府機関としてはそれ程強力なものではなく、陣容も限られ、その能力、発言、影響力は極く限られていたのが実情と見られる。従い、国家全体として地震への強い警戒意識は希薄であったと言わざるをえず、建築基準なども精密さを欠き、各地域の地震発生危険度に応じた適用レベルで、今回の被災地域は7段階の下から3と4、実際に発生した震度10に比較して、震度6か7に耐えられれば良いとの基準に過ぎなかったのである。
そして、表面的に形だけ校舎を整える事で成果とする役所仕事、全国的に値段の安い低品質の鋼材やセメントが溢れている事、より多くの利益を求めて手抜き設計や、手抜き工事が横行している事等が直接の原因を作っているのは言うまでもない事であった。

凄惨な現場
日本のマスコミでは死体や死者の様子を直接画面や写真に出さないようにしている。中国でも生きている人を勇気付けるような報道が主であるが、相当衝撃的な生々しい写真や画面も報道される。救出や救援が大々的に行われたが、やはり大地震の被害現場は凄惨な状況であったことが伺える。
地震発生の5月12日夜にはマスコミで死者数が8000人を超えたとの衝撃的な数字が報道され、全国の人々の耳目を集中させるようになった。震源地に近い汶川や北川など多くの地域が全く音信不通であるとの報道からして、これさえ未だごく一部の数字であり、今後事態が判明するにつれとてつもない数が出てくることを予感させるものであった。実際に、当初は多くの末端の行政機関も施設や要員そのものが大きな損害を受け、死者数を把握したり報告したり出来る状況にすらなかった。それでも救出の生存限界とされる72時間が過ぎる15日には、死体を包むプラスチックのバッグ5万袋が四川省へ向けて緊急に輸送されたと言う。1週間後の19日には3万4073人と3万人を超える死者数が発表されるようになった。マスコミではこの間、廃墟の中からかろうじて救出された人々の感動的な報道が続いていた。しかし、廃墟から救出された人数は結局6500人ほどであった。救出現場では正に大量の死体の運び出しと処理に終われていた様子が知れる。
そして、死体の腐敗は3日もすると急に進む。被災地周辺の損害を受けずに残っていた火葬施設は殆ど24時間のフル稼動でもとても処理出来ず、交通手段が途絶えて運び出し困難な地域も含め、多くが土葬を已む無くされたと言う。家族の確認をとれない遺体も多く、後で識別できるよう整理番号をつけ、写真撮影、DNA鑑定用サンプルの保存など、この混乱の中では並大抵の作業ではなかった事であろう。
病院も尋常ではなかった。負傷者は最終的に37万4000人。地震発生1週間後の入院者が4万2000人、1カ月後も尚1万3000人である事からして、最初から大量の重傷者に溢れていた事が分かる。又、病院へ運び込まれたものの亡くなってしまった人が3304人にも上った。何時間もかけて瓦礫の下から救出した筈の人間が、救出された途端に10分足らずで、或いは数時間もしないうちに死んで行く例も多く報道され、広い現場で専門医も少ないまま、所謂クラッシュ症候群への対処方法が非常に難しかった様子が伺える。
そして、9日目の5月20日には死者数4万75人とともに、行方不明者が3万2361人と発表され、合わせると7万人を超える数字となった。その後死者数は5月末に7万人弱にまで増加して略一定となる。死者数の増加で減少していた行方不明者の人数も2万人弱で動かなくなる。地震発生3カ月を経た8月初でも行方不明は1万8000人のままである。戸籍管理上確認が取れないとか、外地に出稼ぎに行っていて役所として確認が取れていない、と言うケースもあるであろう。しかし大部分は、山崩れで建物や土砂とともに流されたり埋もれたり、又、未だ片づけも手がつかないビルの廃墟の下深く埋もれているものと見られる。遺体の発見すら出来ない人が合わせて2万人近くにも及ぶ壊滅的な打撃が、ここ彼処で発生していた事が改めて確認されるのである。

緊急事態対応
今回の災害への対応としては、SARSを契機に、緊急事態への対応策を政府が数年間かけて練り上げて来た事が大きい意味を持ったとみられる。
2003年5月 国務院常務委員会「突発公共衛生事件緊急対応条例」公布。これはSARSを受けての公共衛生関連であったが、その後、それ以外のあらゆる緊急事態対応につき検討が行わるようになった。
2005年1月 国務院常務委員会「国家突発公共事件緊急対応予備案」制定。これに対応し、例えば中国地震局でも「国家地震緊急対応予備案操作マニュアル」を作成するなど関連省庁で各分野での緊急対応マニュアルが合計約100件作成された。
2005年7月 温家宝首相主催で“全国緊急対応管理工作会議”開催。
2006年7月 “全国緊急対応管理工作会議”開催。
2007年8月 全人代常務委員会「中華人民共和国突発事件対応法」(11月1日施行)可決。これは、この種の法律としては中国では最初のものであった。
2007年11月 “突発事故対応法全国TV会議”開催。
ただし、この時期でも、突発事故に対しては、社会一般、及び地方や中間以下レベルでの危機意識や認識度の低いのが最大の問題とされていた。今回、温家宝首相が即現地へ飛び出して行った事が、この取り敢えず形式的に成立しつつあった緊急対応体制を素早く全面的に始動させる効果を齎したものと推察される。
2次災害の防止
廃墟に埋もれた人々の緊急救出作業と同時に、被災者550万人の生存?生活の確保、疫病の発生を防止する防疫?衛生体制を整えることが重要であった。特に、初期の段階では、遺体や家畜の屍骸、埋蔵されていると見られる不明者への対処、及び大量の被災者が避難に集中した狭い場所でのトイレ確保や清潔な飲料水の供給、病人の治療が極めて重要で且つ難しい仕事であった。これを誤った場合、伝染病の発生と拡大の恐れがあり、見えない病原菌との必死の戦いが展開された模様である。大量の消毒剤が散布されている様子は繰り返しニュースの画面にも登場した。そして、届けられた救済用のテントは震災発生1カ月で100万張り、1カ月半後には150万張りに上り、簡易住宅の建設も1カ月後から本格化して8月初で61万軒となった。取りあえずは、広範な疫病や伝染病の発生を見る事無く、初期の避難段階は乗り切ったものと言えよう。
それに、この四川省の山沿いには産業的にもう一つの特徴があって、これに関連した2次災害の防止も、極めて緊急度の高い事態であった。1960年代の3線建設政策の下、軍事産業や高度な技術を持った産業が、移転、或いは新たに建設された。核関連はどの国でも最高の軍事機密、国家機密であるため具体的には知りようがないが、この地域に中国の核開発、製造、貯蔵の重要な基地があることは広く知られて来た。今回も、大変短い記者発表ではあるが、放射性物質を安全に移転した、核関連の施設は完全にコントロールされているとの説明があった。もし放射性物質が遺漏するような事態が発生した場合は例えば四川盆地の何百万人、或いは何千万人もの人々が住む地域を恒久的に無人地域にしなければならないような事態も発生しうるものであり、この点の緊急性は中国政府も大変クリアーに認識し、状況の把握と対処に格別の努力を払ったものと見られる。
それから、山崩れによる堰止湖が大量の水を貯めて崩壊し、下流地域に大きな洪水を齎す恐れが有る事も広く知られる所となった。1933年に丁度今回の地震発生地域の更に上流域で発生した地震による堰止湖が、40日後になって崩壊し、突然の洪水の襲来で7000人もの人命が奪われる事件が発生した経験があった。今回最大の唐家山堰止湖では、人工的に排水口を堀り進め、6月10日になって土砂の山を崩壊させる事無く水を流出させることに成功した。この間下流の町では20万人もの住民が10日程の緊急避難生活を余儀なくされ、堰止湖の水位と排水口掘削の様子が連日大きく報道されたものであった。
同時に、四川省の西北部山岳地帯には最近多数のダムと水力発電所が建設され、それらのダムにも一定の損傷が発生し、崩壊の危惧もあったことから緊急の総点検が行われた事も報じられた。ずたずたになった道路の様子からは、峻険な山々と峡谷の奥地にまで開発と建設が進められていたことが知られる。乱開発の防止であるとか、自然との調和と言う課題とは、どうやら程遠いところで進められて来た急激な開発発展の状況が伺われるのであった。
さて、7月に入ると、北京オリンピックの報道に掻き消されるように四川地震関連のニュースは少なくなってきた。しかし、中国の人々が、歴史的大災害に遭遇した衝撃とともに、今回広く記憶し感知することになった様々な事象は、一体どのように消化吸収されて行くのであろうか、今後どのような影響となって現れて行くものなのか、今後ともしっかりと時間をかけて見て行く必要があると思われる。

執筆/
宮内 雄史(みやうち ゆうじ)
東京大学北京代表処所長。1973年東京大学教養学部教養学科卒業。三菱商事株式会社入社、シンガポール南洋大学留学。1978年から北京駐在。同社業務部中国室長、日本貿易会?国際社会貢献センター事務局長、2004年から三菱商事(上海)総経理室長を歴任。2007年から現職。