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日中コミュニケーション学の展開と展望

出所: 中日传播网 作者:高井 潔司 更新時間: 2008-10-21 0:00:00

1、「日中コミュニケーション学」の提唱の背景

私は、日中コミュニケーション研究会(JCC)が20052月下旬に北京で開催した「北京シンポジウム」の席上、「日中コミュニケーション学への招待」と題して、日中コミュニケーション学の創設を提唱した。[i]このシンポジウムには、中国の若手研究者や北京の大学に留学中の日本人学生が多数参加していたので、とくに日中間のコミュニケーションのあり方を研究する必要性を訴えたのである。

当時、日中関係は小泉首相の靖国神社参拝問題などで冷却化の一途をたどっていて、首脳の相互訪問はおろか、第3国における国際会議の開催を利用した首脳会談さえ実施できない状態であった。首脳会談の開催自身は、両国間の懸案解決の上で象徴的な意味しか持たない。実務レベルの交渉の積み上げこそが重要である。しかし、首脳会談を開催できない状況は、実務レベルの交渉を停滞させてしまう。それ以上に、深刻なのは両国の世論レベルの相互不信を引き起こすことになる。とりわけ、国営が基本である中国のメディアは、中国政府の外交を支持、支援する立場を一段と強めることになる。逆に日本のメディアは中国側の報道に反発する形で、“嫌中”報道を展開することになる。

この講演から約1カ月後、北京をはじめ中国各地で「反日デモ」が繰り広げられた。北京シンポジウムの開催期間中、たまたま日本を訪問したばかりの中国人記者のグループと懇談する機会があり、中国側に日本の動きについて強い不信感があることは感じたが、それが1カ月後に「反日デモ」にまで発展するとは予想もできなかった。

私の提唱する「日中コミュニケーション学」は、このように日中関係を主にメディアの観点から捉えようというものである。JCCという組織は1999年に発足し、その呼びかけ人の一人、劉志明?中国社会科学院新聞与傳播研究所も発足当初から、日中関係におけるメディアの役割に注目しており、まさにこの点においてJCCの設立を提唱した。その後、両国の研究者やメディアの実務に携わる人たちが参加して、JCCはインターネットのホームページやメーリングリストを通して研究や情報の交換を行う一方、東京や北京などでシンポジウムを開催してきた。反日デ   モの時点で、JCCはすでに6年間の経験を積んできていたことになる。

したがって、反日デモは発生した段階で、われわれは決して感情的に対立することもなく、意見の交換や研究交流を重ねた。反日デモを単純に中国の愛国主義教育のせいにするなどという情緒的な議論はしなかった。JCCの議論の成果として『日中相互理解のための中国ナショナリズムとメディア分析』を0510月、明石書店から上梓した。「反日」という世論の形成を、中国の政治やメディアの動向に合わせて分析したのである。「日中コミュニケーション学」の概要とその可能性を示したといえる。

 

2、「日中コミュニケーション学」の概要

 「コミュニケーション」は、本誌が「中日傳播」と名付けられたように「傳播」と訳されたり、また「交流」と訳されたりする。私は中国語に堪能ではないので、そのニュアンスの違いはよくわからないが、「傳」はメディアを意味する「傳媒」、「播」は「放送」を意味する「広播」につながるところを見ると、「メディア」の意味合い強く、情報を発信し、広め、コミュニケーションを行う行為といえるのだろうか。これに対して「交流」は、人と人、あるいは組織と組織の交じり合い、直接的なコミュニケーションを指すのだろう。「漢英辞典」では、「傳播」を「disseminate」、「propagate」、「spread」、一方、「交流」を「exchange」と翻訳している。英語のニュアンスからだと、コミュニケーションを、一方向性のレベルで考えるのか、双方向性というレベルで見るのか、という違いも想定できる。メディアに注目してきた「日中コミュニケーション学」は、その意味で中国語では「中日傳播学」と訳すのが自然であろう。

 1990年代から21世紀初頭にかけての日中関係の悪化に、メディアが大きな役割を果たしてきたことは、多くの関係者が指摘するところである。これをどのように研究するのか、その方法論が大きな問題である。私は冒頭紹介した「日中コミュニケーション学への招待」講演の中で、当初、多くの研究者が、両国のメディアによる報道をマイナス報道、プラス報道に分類して、プラス報道を増やすべきとか、あるいは相手の国の報道が客観的でないとか、中立報道でない、といった批判を展開し、結局水掛論に終わってしまう傾向のあることを指摘した。その上で、「日中コミュニケーション学を、学問として、研究として成り立たせるためには、発想を逆転させて、『中立報道』『客観報道』を求めるのではなく、なぜそれができないかという問題意識を持ち、報道の背景となっているそれぞれの国の政治や社会状況、メディアの置かれた環境などの分析こそが必要になっている」と述べた。相手国の報道に一喜一憂するのではなく、そうした報道がなぜ出てきたのか、その背景やそれを生み出す構造、メカニズムに注目して分析を進めるべきである。先に紹介した『日中相互理解のための中国ナショナリズムとメディア分析』はまさにそのような観点から分析を行ったものである。

 「プラス報道」が増えることは望ましいし、「日中友好」も結構なことだ。しかし、そうあるべきだという規範論では研究にならない。望ましいこと、結構なことがなぜできないのか、という点に深く入って分析してみることが大切なのだ。この分析にあたって、日中関係におけるメディアの役割を見ていくのが、「日中コミュニケーション学」だが、その場合、やはりメディア理論、ジャーナリズム理論の成果を大いに利用すべきである。とりわけ、メディアと世論の形成について、より注意を払って見ていかねばならない。

 私たちは一般に世論形成におけるメディアの役割を余りにも大きく評価しがちである。場合によっては、メディア=世論と考えがちだ。もちろんメディアの役割は重要であるし、「日中コミュニケーション学」も、それを研究対象にするわけだが、それは世論そのものでもないし、一方的に世論を形成しているわけでない。しかし、外国の世論を知る手がかりは当該国のメディアであり、当該国のメディアの言論をそのまま世論と見なして議論してしまうケースがいまだに目立つ。中国の一部メディアは産経新聞の論調を日本の世論であるかのように取り扱い、そうした報道にわれわれ日本人も反発してしまうという“悪い循環論”に陥ってしまう。

 日本や中国でも「WEB20時代」の情報の伝達速度や発信量の飛躍的な変化ばかりが注目されているが、大事なことは、むしろ、メディアにアップされている情報がいかなる性質のものか、それが世論形成にどのような影響を与えているかという「情報の質」の問題ではないか。といっても、「プラスかマイナスか」「中立報道かそうでないか」「客観的か主観的か」といった質の問題でなく、どのような情報源に基づいて、どのような基準によって選択された「情報」か、という質の問題である。

 恐らくこの「情報の質」を問題にする時、新しいメディアほどその不完全性を露呈していることに気づくに違いない。中国における「反日」世論の形成はその現われだと私は理解している。

 

3、「日中コミュニケーション学」の原則

 06年の安倍訪中以降、日中関係は大幅に改善した。それまでの「友好協力パートナーシップ」から「戦略的互恵関係」に格上げされた。戦略的互恵関係は、領土問題や歴史認識問題などで双方に意見の違いがあったとしても、それを対話によって解決を図る一方、両国の協力によって双方が利益を得る部分を拡大させ、関係の改善に役立てようという発想である。そして日中コミュニケーション学にとって重要なのは、日本が中国の改革?開放路線の展開を評価し、中国の発展を脅威と見なさず、また中国側が日本の戦後の平和建設を評価すると表明した点だ。両国のメディアの報道の幅は、やはり政府の外交姿勢に左右される。とりわけ党と政府によって管理された中国のメディアは、戦後日本の多様な姿を伝えてこなかった。中国メディアの日本報道は、日中間に何らかの摩擦が発生した場合に、軍国主義復活を警戒する論調が目立った。したがって、戦略的互恵関係の締結によって、日本の戦後を評価したことは、中国メディアの対日報道に多様性をもたらすことになる。実際、07年の温家宝首相の来日に合わせ、中国中央テレビが日本の日常について特集シリーズ番組を放送するなど変化の兆しが見えている。

 友好協力関係の中で、友好でなければ報道しない、逆に遠慮して相手のマイナス部分に目をつぶるといった主観的な報道が目立ったが、戦略的互恵関係の中では、いい面も悪い面も含め、多様な報道が必要になってくる。

 このような環境の変化の中で、日本の対中報道や中国評論に目立ってきたのは、中国の遅れた面や暗黒面を強調し、中国を「異形の国」と揶揄する内容である。中国自身自らを発展途上国と位置付け、改革?開放政策を進めてきた。だが、13億という強大な人口を抱える地上最大の発展途上国の発展にはいびつな面が付きまとう。胡錦濤政権の下で、中国は調和の取れた発展を目指す「和諧社会」建設をスローガンにしているのも、中国自身がバランスのない発展の現状を自覚していることを示している。したがって、中国の遅れた側面、いびつな側面を指摘することは容易なことである。過去のように隠ぺいされているわけではない。中国国内でもマスメディアだけでなく、インターネットや携帯電話などのパーソナルなメディアが普及し、マスメディアが管理された情報を発信しても、大衆がパーソナルなメディアを使って世界に向けて発信してしまう時代に入った。オリンピックを前に海外のメディアでは、中国の地方都市で発生した地方当局に対する住民の抗議運動や暴動が大きく伝えられたが、それは住民自身の発信を通じて広まったものである。オリンピック開催で中国への関心が高まる中、日本のメディアでは環境問題や少数民族問題、経済格差など中国のいびつな側面、遅れた側面を伝える報道が目についた。

 毎日新聞によると、北京五輪開幕に合わせた日本の主要紙の社説はオリンピックよりもむしろ「中国論」に傾斜していた。[ii]毎日社説が指摘するように「五輪開催都市とホスト国には素顔を全世界にさらけ出す覚悟と度量が求められる。少数民族対策などで、とかく閉鎖的と批判されてきた中国が今回の五輪開催を契機に『開かれた大国』に変わることができるだろうか。その一点に世界は注目している」。この点に関して、私も異論はない。ただ、五輪開催を期にあらゆる問題が、すべての問題が一気に解決できると期待するのは難しいのも事実ではないか。

 重要なことは、中国の問題点を指摘する姿勢だ。それによって中国の悪いイメージを広め、問題の解決をより複雑かつ困難にする意図を持った報道や評論が目に余る。さらに、意図的ではなく、安易に記事や番組を制作するために中国の難点を利用するケースも多い。主要紙の社説にそのような姿勢があるとは言えないが、大衆向けの雑誌やテレビのワイドショーにはそのような安易な姿勢がうかがえる。従来、中国に関して、日本では「中国脅威論」や「中国崩壊論」が盛んであった。これはその後の中国の発展や動向によって否定され、市場を失いつつある。代わって台頭しつつあるのが中国のいびつな側面のみを強調する「中国異形論」である。中国は日本と歴史も体制も国情も異なる。当然様々な面で日本と異なる面がある。「異形論」の特徴は、その違いに価値観を持たせ、遅れた、得体の知れない、非人間的な、悪意に満ちた国と蔑視する姿勢である。一見、異形論は中国自身、様々な問題点を抱えていることから、一定の説得力を持つ。中国側の反日感情の高まりと対応する日本側の嫌中感情の高まりに媚びる議論でもある。

 私は「マイナス報道」を減らせ、失くせと言いたいのではない。私も自身の著作や評論などで中国の問題点を指摘することが多い。しかし、それは中国を貶めるためではなく、中国の現状を理解し、将来を展望するための研究と位置付けている。

 「中国異形論」を克服するには、まず中国のマイナス面をみるだけでなく、プラス面も見るバランスの取れた姿勢が必要である。それ以上に必要なことは、自国を振り返ってみるという姿勢だ。相手の国の問題点をあげつらうだけの議論ではなく、自国がいかなる問題を抱えながら、世界やアジアの国々とどのような関係を構築していくかという視点である。[iii]



[1] この講演は中日コミュニケーション機構『日中関係とメディアの役割』(20065月刊)に所収

[1] 088104面「社説ウォッチング」

[1] 本論を執筆中、『文芸春秋』089月特別号で「『異形の大国』中国に問う――北京五輪日中大論争」という議論を見た。相手の国の問題をあげつらうだけの不毛な論議である。

 

 

執筆/

高井 潔司(たかい きよし)

1972年東京外国語大学中国語学科卒業。読売新聞社入社、上海特派員、北京支局長、論説委員など歴任。天安門事件、トウ小平逝去などを現地で取材。2000年より、北海道大学大学院メディアコミュニケーション研究院教授として同大学に勤務、現在に至る。その他、日中コミュニケーション研究会理事長、サーチナ総合研究所客員研究員として執筆活動などに従事。専門は、中国メディアの研究を中心に、日中関係、現代中国政治など。

 

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