現在の位置:日中ネット>>論文集>>中国メディアの変容と「世論」の形成

中国メディアの変容と「世論」の形成

出所: 世研调查网 作者:世研调查网 更新時間: 2008-4-30 0:00:00

本論の狙い

200010月来日した中国の朱鎔基首相は、TBSテレビで行った市民との直接対話において、自身が進めている対日関係の改善策について、中国国内では「軟弱だ」との異論が多く、数多くの批判がインターネットによって寄せられていると述べた。(注1)実際、中国のマスメディアがインターネットのホームページ上に設けている読者の論壇には、激しい反日の声が書き込まれている。とくに過去の日中戦争の各種記念日(満州事変、廬溝橋事件、南京大虐殺など)にはその書きこみ数が急激に増える。(注2)

これは対日関係だけに発生している現象ではない。鄧小平亡き後、中国の経済改革?対外開放路線を強力に推し進めている朱首相に対して、国内の保守層からの抵抗が根強く、19994月朱首相が訪米し、中国の世界貿易機関(WTO)加盟をめぐる大詰めの対米交渉にあたった際も、首相批判が高まった。その後、北大西洋条約機構(NATO)傘下の米軍機が在ユーゴスラビアの中国大使館を誤爆する事件が発生し、一段と反米世論が高まり、朱首相の失脚説も流れた。その結果、WTO交渉は、誤爆事件への国内の批判が静まる1999年末まで再開できなかった。(注3)中国の街頭の新聞スタンドで幅を利かすのは、いまや台湾問題や軍事問題などをめぐってセンセーショナルな見出しや写真を掲げる新聞、雑誌である。

 中国は中華人民共和国の建国以来、共産党が指導する一党独裁国家であり、中国当局の政策、方針と異なる世論が存在すること自体が抑えられてきたし、また異なった世論がメディアを通して公表されることもあり得なかった。外交問題においてはなおさらのことであった。

 しかし、近年、特に大衆的な新聞や大衆が意見を直接反映できるインターネット上の論壇には愛国主義的論調、時には排外主義的論調があふれ、中国の対外政策にまで影響を及ぼすようになり、国際社会との摩擦の原因ともなっている。(注4)

 こうした動きは、何によってもたらされているのか。中国当局のメディア政策の転換であるのか。改革?開放政策の展開の下で大きく変容する中国のメディア、主に新聞を中心として、その軌跡をたどる中で変化の構造を明らかにし、さらに今後、中国のメディア政策の方向とその動向が、中国の政治、外交の展開にどう影響するかを展望するのが、本論の狙いである。


改革?開放による中国メディアの変容

 (1)中国のマスメディア政策の基本点

 中国のマスメディアは、中華人民共和国の建国以来、一貫して、党と政府の「喉舌(代弁者)」と位置付けられてきた。つまり党の路線、方針を大衆に向けて宣伝する当局の「代弁者」の役割を担ってきた。場合によっては「喉舌」だけでなく、党の路線に対する大衆の反応を探るための「耳目」の役割を果たしてきた。変わらないのは、党と政府の下にある「宣伝機関」という立場である。

 中国のマスメディア研究者の中には、中国マスメディアを権力者の「道具」と位置付け、中国のマスメディア史を

 Ⅰ、「階級闘争道具論」(1919年の共産主義に関する出版物の出現から「革命根拠地」におけるマスコミシステムの構築までの時期――社会主義を宣伝する道具として)

 Ⅱ、「指導道具論」(日中戦争を経て49年の建国までの党のマスコミ制度の確立期――毛沢    東自らメディアを指導し権力を確立する道具として)

 Ⅲ、「組織道具論」(66年までの国家的マスコミ制度から党的マスコミ制度への変質――大躍進運動などの組織宣伝の道具として)

 Ⅳ、「独裁道具論」(文化大革命時期――毛沢東神格化のための道具として)

という流れで取らえる見方もある。(注5)

 マスメディアを「道具」と見なす当局の立場は、改革?開放の時期に入っても基本的に変わっていない。例えば9012月、新聞?出版メディアを管理する国家新聞出版署が公布した「報紙管理暫定規定」は「わが国の新聞事業は中国共産党の指導する社会主義報道事業の重要な構成部分であって、必ず社会主義に服務する、人民に服務するという基本方針を堅持し、社会の公益を最高の準則とし、マルクス?レーニン主義、毛沢東思想を宣伝し、中国共産党と中華人民共和国の方針と政策を宣伝しなければならない。また情報、科学技術、文化知識を伝達して、人民大衆のために健康的な娯楽を提供し、人民大衆の意見や提案を反映し、新聞の世論監督機能を発揮しなければならない」と、新聞事業の目的を定義付けている。改革?開放期にあっても、中国当局にとっては、マスメディアとは「改革?開放」という当局の路線を宣伝する道具に過ぎないのである。「暫定規定」はまだ新聞法が制定されていない中国にあって、新聞社の登記や発行認可などを規定した基本的法令となっている。(注6)

 しかし、中国社会に構造的な変化をもたらした改革?開放期にあって、以下に述べるように、中国のマスメディアが当局の宣伝機関という基本的な枠組みの中にあっても、大きな変容を遂げたのはこれもまた事実である。

 (2)「党の喉舌」か「人民の喉舌」か――改革?開放前期(89年の天安門事件まで)

 建国当初の281種類だった中国の新聞は、50年代から60年代にかけて種類を増やし、一時期1700種類を越えた。しかし、文化大革命に入ると、発行部数は減らなかったものの、人民日報、解放軍報など党と軍の機関紙に限定され、種類は42にまで減った。「毛沢東思想」を称える独裁者の道具としての新聞が多様ではあり得なかった。改革?開放路線が本格化する80年には382種類に回復し、以後、毎年100種類前後の新聞が新たに発行され、89年には1,618種類に達した。80年に7,415万部だった発行部数も、89年に1億5,148万部へと倍増した。

 この時期に中国の新聞が発展した背景には様々な要因が挙げられよう。一つは、中国当局が「改革?開放」路線を宣伝するため、マスメディアに対する工作を強化し、信頼回復に努めた結果である。また「改革?開放」路線の目標が、従来の階級闘争一点張りから経済建設へと移ったことで、新たな経済、経営管理、科学技術の情報を伝える新聞が必要になった。さらに経済成長に伴い、大衆の経済水準も上がり、従来、機関や職場が購入したものを読むのが通常だったが、大衆が自己負担で自身の目的に沿って、購入するようになったのである。

 一方、メディアの経営にも、改革の波が押し寄せる。81年から経営請負制が導入され、新聞の論調は依然、共産党の指導の下に置かれていたが、新聞経営は次第に独立採算制度に組みこまれ、広告、販売政策の転換や多角経営化が進行した。つまり新聞社の側にも、読者の側にも、従来のような「政策宣伝のための新聞」ではなく、「買って読むに値する新聞」を制作する必要性が生じてきた。

この変化を数字的にもはっきり現われる。「新聞紙数全体の数字に占める共産党機関紙の比率は、改革開放初期の95%以上から、91年に27.1%にまで転落した。発行部数も同じ状況であった。78年には5,500万部あった共産党機関紙(中央、地方合わせ)は85年以降2,800万部前後となった」「党中央機関紙である『人民日報』は、79年に600万部を超えたが、80年から発行部数が減少し、91年には200万部にまで落ちてしまった」という。(注7)機関紙に代わって、急速に伸びたのは「青年報」や「団結報」など特定の団体が発行する(中国では「対象紙」と分類される)新聞や、「経済日報」などの専門紙、庶民生活の話題や趣味、娯楽を中心とする夕刊紙、海外情報を転載する「参考消息」「文摘報」などの情報紙、スポーツ、テレビ?ラジオ番組紙である。

中国では、共産党以外に、婦人、労働、青年団体、民主党派、国務院の各省庁など公認された団体や機関、国営企業(いわゆる単位)のみに、その単位の設立目的に適った新聞の発行が認めらる。こうした様々な機関が競うように新聞を発行したのである。これまでの党、政府の「喉舌」としての新聞とは、色合いを大きく異にする新聞の成長は、改革?開放路線の推進に伴う社会の多様化現象を反映していた。

 (3)「報道の自由」への動きと天安門事件による挫折

 この時期、新聞の規制や管理のあり方をめぐる当局、新聞関係者、読者の意識も大きく変わってきた。この段階での変化とその限界を以下の3点にまとめてみよう。 

 A. 一つは、共産党や人民日報など当局者の中にも、報道の改革を求める声が高まってきたことだ。毛沢東の死後も勢力を維持していた華国鋒(当時党主席)ら「文革受益組」を追い落とすにあたって、マスメディアは大きな役割を果たした。鄧小平(当時党副主席)の意を受けた胡耀邦(当時党組織部長後に総書記)を中心に、改革推進派は「文革受益組」に対し、「真理の基準論争」を挑む。華らは階級闘争至上主義の江青?毛沢東夫人らいわゆる「4人組」の追放には加わったが、毛沢東側近として勢力を拡大したことから、毛沢東の指示、決定をすべて正しいとして、毛沢東思想に固執し、改革に消極的だった。これに対し、鄧ら改革派は、「真理は実践の場において検証されるべき」と主張し、大胆な改革の導入に道を開いていく。党機関紙「人民日報」もその推進役であり、胡績偉社長は新聞のあり方についても、党宣伝の道具としての新聞から一歩踏み出す考え方を表明した。

 胡社長は793月に開かれた全国新聞工作座談会の席上、党機関紙について、「党が発行する新聞であって、党の喉舌である」としつつも、「われわれの党は人民の利益以外の利益を代表しない。したがって、党委員会は党の新聞を、人民の新聞、人民の喉舌となるよう指導すべきである。党機関紙は広大な人民大衆の支持、支援、監督の下に活動し、全党が発行する新聞、全人民が発行する新聞である」と述べ、「人民のための新聞」という性格を強調し、「党という性格(党性)と人民という性格(人民性)を弁証法的に統一すべき」と提案した。(注8)胡社長によれば、この座談会の中で、「長年来の経験からいって、党性と人民性の統一には法令を定め、党と人民の関係、その責任、権利を明確にし、いかなる人物も勝手に変更できないようにすべき」といった「新聞法」の制定を求める声など改革論議が活発化した。

 こうした報道改革論議や、人民日報上で展開されるマルクス主義や経済体制に関する大胆な見直し論議を「行き過ぎ」と見なす胡喬木?党政治局委員、鄧力群?党中央宣伝部長を中心とするグループは、一連の動きを改革?開放に伴って生じた「ブルジョア精神汚染」と批判し、83年、胡社長ら人民日報幹部を辞任に追い込む。胡政治局員、鄧宣伝部長は当時、中国のマスメディアを管轄する宣伝部門の責任者であり、彼らの権益を侵す改革論議を容認できなかったである。

 もっとも、「党」と「人民」を対立させたり、胡績偉と胡喬木のグループを「敵対的な対立」と捉えることはできない。(注9)胡績偉が指摘しているように、胡喬木自身、建国前には同様に新聞における「人民性」の重要性を指摘している。階級闘争、敵対的な対立に明け暮れた毛沢東時代と違って、経済や政治体制の改革がどの段階にあるのか、その段階において当事者がどの立場に置かれているのかによって、当事者間の主張のトーンが微妙に変わり、彼らが歴史に果たす役割も変わってくるというべきだろう。大きな違いは、胡績偉が、文化大革命など党が誤りを犯した場合、新聞はどう対応するのか、マスコミ人として問うているのに対し、新聞を管轄する当局者としての胡喬木は、党には自浄能力があり、党の指導能力を疑うこと自体、社会主義体制を損なうものとして危険視している――点にある。

 経済改革は、こうした改革に慎重なグループの抵抗にもかかわらず進行し、社会の変革をもたらしていった。すでに数字で見たように、読者の党機関紙離れは進んだ。人民日報社長を辞任した胡績偉は今度は全国人民代表大会(国会に相当)で新聞法制定に向けて活動したし、党内でも報道改革に対する議論が高まった。読者の志向が変わっただけでなく、改革の進展は一方で、一部党内の指導者やその子弟の中に、権力を利用した腐敗、不正犯罪が広がり、マスメディアに権力腐敗を監視する「社会監督」を求める声が出てきた。

 87年の第13回党大会では、趙紫陽総書記が新聞の社会監督機能を強調しその機能を保証するため「新聞、出版法の制定準備をしっかりと進めなければならない」と述べ、報道改革を明確に打ち出した。同じ年、政府の機構として、「国家新聞出版署」も設置された。党に最終的な指導権があることには違いなかったが、関連法令の起草から発刊の審査、新聞の検査まで、新聞の管轄が党から国家へと移った。党と政府の関係でいえば、改革?開放路線が採択されて以来、「党政分離」が改革の基本に置かれ、多くの分野の権限が党から政府へと移った。

B. 第二点として挙げられるのは、経済体制改革はもちろん政治体制改革まで論議する新聞が現れたことだ。

89年の天安門事件直前まで刊行された「世界経済導報」がその典型である。朱家麟著『現代中国のジャーナリズム』(注5参照)によると、中国世界経済学会と上海社会科学院世界経済研究所の合弁による新聞で、50年代後半に新聞が国有化されて以来、「中国において初めて登場した集団所有の新聞」であり、朱は「民主化を目指した政論紙」と評価する。政府のシンクタンク「社会科学院」を民間と位置付けられるか、政論紙と言えるかどうかは別として、同紙はタブロイド版の週刊紙で、気鋭の学者、評論家を起用し、西側諸国の政治体制や東欧での改革の現状を紹介したり、改革?開放路線が直面する問題を正面から論じた。(注10

世界経済導報が政論紙としての持ち味を最大限に発揮したのは、89年天安門事件の直前、事件の引き金となる胡耀邦(前総書記、87年発生の民主化要求学生デモに軟弱な対応をしたととして事実上の失脚)の死去をめぐる座談会記事だった。胡耀邦総書記は415日に死去し、翌日からその死去を悼む学生たちの民主化要求デモが繰り返されるが、その最中、「世界経済導報」は、雑誌「新観察」と共催で、胡耀邦追悼座談会を開き、その内容を全面的に報道した。座談会は胡績偉をはじめ、天安門事件で学生たちのブレーンとなる厳家其(中国社会科学院政治学研究所所長、事件後海外に亡命)、戴晴(光明日報記者、事件後逮捕、入獄)ら改革推進派の知識人のそうそうたるメンバーが参加した。出席者たちは、86年末に発生した学生運動の取締りが手ぬるいと失脚に追い込まれ、失意のままに死去した胡に対する公正な評価を求めた。そのためにも報道の自由が必要との意見も出た。学生デモのスローガンに比べ、やや慎重であったが、改革推進という点では一致していた。

 この座談会記事をめぐり、上海市党委員会は数百字の削除を求めた。世界経済導報は、その要求を受け入れず、予定通り16万部印刷し、そのうちの数百部を繰り上げて発送した。(注11)これに対し、党委員会は編集長の解任と発行停止を決めた。処分を決めた同市党委員会のトップが現在の中国共産党の総書記兼国家主席を務める江沢民である。ちなみに江沢民は天安門事件の最終局面で解任された趙紫陽に代わって、総書記に抜擢される。世界経済導報への処分を果敢に断行した点が抜擢の一つの理由であろう。

 もっとも、政論紙は、世界経済導報のほか何紙が挙げられるが、同紙のように一部の知識人向けであったり、経済特別区という地域に限定された新聞であった。

 当時の新聞はまだ4ページないし8ページ程度の新聞であり、専門紙、情報紙といっても、党機関紙に比べ、内容がやや専門的であるというだけで、依然、党の指導の下に置かれていた。紙面に様々な改革が試みられていたが、人民日報の1面は相変わらず、党の指導者の会議出席や外国要人との会談で占められ、記事の大きさ、扱いは内容の重要度でなく、党内の序列で決まっていた。経済情報は当局の発表通りであり、「形勢大好(情勢は素晴らしい)」という毛沢東時代の見出しが相変わらず跋扈していた。取材や執筆の自由があったわけではないから、内容的にも決して読者の満足のいくレベルに到達していなかった。まだまだ計画経済の下にあり、新聞の用紙の配分も当局が握られていた。それどころか、謝礼をもらって記事を書く「有償新聞」という腐敗が新聞界にも生まれてきた。

 まだ経済改革は進行しておらず、87年やっと従業員7人までを雇用してよい私営企業が認められたばかりで、民間の新聞など論議すべくもない状況だった。都市と農村の移動が制限されていただけでなく、都市の住民も職業選択の自由はほとんどなく、職場につなぎとめられていた。電話やファックスといった通信手段、コピー器械などの印刷手段は一般に普及しておらず、人々のコミュニケーション手段は著しく制限されていた。

 C. 最後に読者レベルの意識変化である。

 こうした中で、改革?開放期最大の政治的事件となった天安門事件では、学生たちの民主化要求デモの中で、最大のスローガンの一つとして「新聞自由(報道の自由)」が掲げられた。

 事件は偶発的に発生したわけではない。改革の進行とともに、改革によって生じる経済格差や腐敗などのひずみがあらわれた。そのひずみを、改革を一層推進させる中で解決するのか、改革のテンポを遅らせ、改革を見直す中で解決するのかの対立が、党内外で起きていた。事件の前年、88年の夏に価格改革に失敗した趙紫陽は、経済の指導権をすでに李鵬首相(当時)ら改革慎重派に握られていた。改革の後退現象はすでに始まっていた。こうした党内の動きは全くといってよいほど報道されることはなかった。

 改革推進派はその巻き返しのタイミングを図っていた。そのきっかけが胡耀邦前総書記の死去だった。党幹部やその子弟による不正?腐敗の追及と並び、「新聞自由」がスローガンに掲げられた。当局の手に握られている報道機関を解放しなければ、成果が得られないことを、数年来の学生運動の失敗で学生たちは理解していた。当局に対し対話を要求し、そのテレビ中継を求めた。学生?市民のデモには、報道改革の後退を懸念する多くの新聞記者たちも参加した。デモ隊が「新聞自由」を要求して、国営通信社、新華社前を包囲したこともあった。一部の新聞社では、編集、発行が一時的に自主管理の下に置かれ、学生たちの主張に共鳴する新聞も発行された。報道の自由をめぐる問題は、中国政治の最重要課題の一つとなったのである。

 「報道改革」を求める声は学生だけではない。中国人民大学の世論研究所が86年1-6月に実施した北京日報報道内容に関する調査をもとに書かれた喩国明論文「党機関紙の現行報道モデルに対する診断」(同著『中国新聞業透視』所収、河南人民出版社、1993年)は、経済報道を例に、「報道のあり様が陳腐かつ老化しており、読者率、信頼度、価値がいずれも低い“三低”現象が起きている」「経済報道では少なくとも53%の読者が全く読まないか、ほとんど読まない」と指摘する。読者の不満は「大衆の声が反映していない」「成果を称えるばかりで、問題の追及がない」「現実問題に触れる事が少ない」などの順になっている。経済報道にも関わらず、1ヶ月以上も前のニュースが60%近くを占めていたという。大衆が求める新聞、報道改革と現実とのギャップが広がっていることを示している。

 D.天安門事件による報道改革論議の挫折

天安門事件は周知のように軍事的鎮圧という結末を迎える。戒厳令下、新聞社、テレビ局は完全に共産党の管理の下に置かれた。学生支持の号外が勝手に発行された人民日報では編集幹部の大半が更迭された。新聞界の再編は、開放ムードの中で市場に出回ったポルノ雑誌の一掃キャンペーンとともに進められた。全人代で新聞法の草案作成にあっていた胡績偉らは、党内観察処分を受け、草案作成作業は頓挫した。報道を含め改革推進を求める声は確実に育っていたが、慎重派を凌駕するには至ってなかったという評価もできよう。

 事件後、宣伝部門の最高責任者となった李瑞環(党政治局常務委員)は「新聞工作研究討論会議」(8911月)の席上、「正面宣伝を主流とする方針を堅持しよう」と題する演説を行い、「新聞界のごく少数の人間は『人民性』という幌をまとい、党と対等の立場に立ち、風波を起こし、党の事業に損害を与えただけでなく、人民の利益を損なった」と、総括した。演題の「正面宣伝」とは「現実生活の進歩的で、明るく、先進的で、積極的な部分を宣伝し、反動的で、暗く、後ろ向きで、消極な部分を暴露、批判する」ことであり、その判断の基準は「党性」である。「『人民性』という幌をまとった」「ごく少数の人間」とは胡績偉らを指している。

 江沢民総書記も同じ会議で「ここ数年来、ブルジョア自由化思潮が氾濫し、今年春から夏にかけての動乱と反革命暴乱まで、新聞界の少なからぬ問題が暴露され、いくつかの問題はかなり深刻であったことを、はっきりと見て取らなければならない」「特に中央の1級レベルのいくつかの主要新聞単位と上海の『世界経済導報』は、一時期、少なからぬブルジョア自由化の観点を振りまき、動乱の時期には一層、党の路線からかけ離れた。党中央の正確な声を宣伝しなかったばかりか、中央の正確な方針と政策に違反して、あからさまに反対論調を唱えた」と、事件とマスメディアの関わりに言及し、さらに「われわれの新聞、雑誌、ラジオ、テレビは今後決してブルジョア自由化のために陣地を提供してはならない。いわゆる政治の多元化、経済の私有化、中産階級論、全面西欧化、マルクス主義時代遅れ論などブルジョア自由化の観点に対して、報道機関は真剣にエネルギーを集中し、読者のために説得力ある、質の高い文章を書かねばならない」と述べている。(注12

 江沢民が指摘した「中央の1級レベルの新聞単位」とは、党機関紙の人民日報を指す。党の最高レベルの機関紙が「誤り」を犯すわけだから、「党の無謬性」を前提にした「党性」を報道の第1義に置くこと自体に、実は矛盾があるというべきだろう。その矛盾が発生するから胡績偉たちは新聞法による報道改革を求めていたのだ。

中国の新聞界を取り仕切る「暫定規定」は、この時期に作成された。それまで積み上げられてきた報道改革の成果が一気に突き崩された時期でもある。皮肉な事に、その後、江沢民が批判した「私有経済」に道を開くための報道キャンペーンが繰り広げられ、ブルジョア自由化と批判された観点が主流を占めるに到る。改革?開放の前半期では、天安事件の収拾に伴う改革の後退は報道改革の面にも及んだ。その一方で、報道をめぐる中国の課題が一層明確になったと言えよう。

事件直後は引き締め政策が各方面に及び、経済成長はマイナスを記録する。報道改革論議が後退しただけでなく、新聞の発行も種類で89年の1,618から90年に1,442と改革?開放路線に転じて以降初めて減少し、部数も15,148部から9013,986万部にダウンした。(注13

 (4)マスメディアの成熟――改革?開放後期

 A.転機としての鄧小平講話 

 中国のマスメディアをめぐる転機は91年初めに訪れた。それは中国の政治、経済状況の変化に対応していた。天安門事件の武力鎮圧にも関わらず、改革?開放路線は継続すると表明していた最高実力者、鄧小平は91年の春節(旧正月)、避寒先の上海から改革?開放路線再開の狼煙を上げる。上海市の党機関紙「解放日報」が上海の中心部を流れる川の「黄浦江」と鄧小平の名前をもじった「皇甫平」のペンネームで、当時の停滞した政治、経済状況を批判し、改革?開放路線を再活性化し、その加速を呼びかける評論を連続して発表した。

かつて毛沢東が、劉少奇ら実権派に対し、文化大革命発動の狼煙を上げるのに、上海の新聞を利用したが、鄧小平もこの故事にならったところが、中国の指導者とメディアの関係をはっきりと示している。依然、彼らにとって新聞は「指導者の道具」である。

しかし、事件後、鄧小平から全権をゆだねられていた江沢民、李鵬ら党、政府の責任者たちの反応は鈍かった。中央の新聞は鄧小平の真意をはかりかね、一連の論文を転載しなかった。それどころか、改革に消極的な保守勢力が握る一部の北京のメディアは解放日報論文の批判を展開した。(注14)江沢民らが鄧小平の意図を理解するのに1年を要した。その頃には、天安門事件で中国に経済制裁を課していた国際社会の立場も徐々に変化していった。92年の春節に再び広東、上海など南方の改革モデル地域へ視察に出た鄧小平は、これら地域の成果をもとに、改革?開放を従来の経済特区、開放都市といったモデル地域だけでなく、中国全土に拡大するよう指示を下した。(注15)これには地元の新聞はもちろん中央の新聞も敏感に反応し、国際社会においても中国の改革?開放路線の再開は大いに歓迎された。(注16)海外からの対中国投資が急増し、中国は未曾有の高度成長期に入る。90年代の中国の高度成長は、社会全体の市場化、情報化をもたらし、報道界にも著しい変化を巻き起こすことになる。

 80年代は窮迫経済が徐々に解消に向かう程度で、売り手市場であった。しかし、90年代、改革?開放路線が加速し、目覚しい経済成長で都市部において物資が有り余るほどの買い手市場に変わる。広告によって、消費者の購買意欲を刺激することが通例となり、広告需要が急増する。その広告をめぐって、マスメディアは大きく再編されることになる。さらにはCATVに伴う多チャンネル化、パソコン、携帯電話の普及も、その動きに拍車をかけた。

 B.新聞界の新しい波

 天安門事件で種類も部数も減少した新聞界だが、94年には2,108種類、発行部数17,900万部と、元の勢いを取り戻す。また従来4ページ、8ページが主流だったが12ページ、16ページへと増ページ化が進行した。中国で発行される新聞の年間総ページ数は90年の1487000万ページから95年には2579000万ページに増えている。読者に人気のある新聞がそれだけ広告を確保されるから、紙面の内容にも変化が起きる。当局の宣伝、キャンペーンではなく、読者の興味を引くニュース、情報が優先される。当局の宣伝を中心とせざるを得ない機関紙はなかなかこれに対応できないから、部数を落とし、代わって読者本位の新聞が部数を伸ばす。機関紙を発行する新聞社は、機関紙と並行して、情報紙を発行するようになった。

 党中央宣伝部が94年、中国人民大学に委託して行った読者調査(注17)によると、自費で新聞を定期購読する人は全体の54%にのぼり、しかも2部購読者が19.2%、1部が13.03部が10.6%と、自費で新聞を購入する人が急速に増えてきた。自費で購入する場合の新聞の種類は内外の新聞の興味を引く記事をダイジェストして転載する「文摘類」がトップで、続いて「晩報(夕刊)類」「週末報」などの娯楽紙、「生活服務類」「地方省市報」「青年報」などとなっている。最低は「全国性総合類」つまり人民日報などの機関紙というデータが出た。また読者がどれだけ実際に記事を読んでいるかという項目では、やはり「文摘類」がトップで、続いて「晩報」「地方省市報」の順となっている。新聞を読む目的としては「国内外のニュースを知る」がトップ、以下、「知識を高め、自己充実を図る」「視野を広げ、見聞を深める」そして「方針、政策を知る」「様々な社会の観点を知る」「専門業界の動向を知る」と続く。さらに「どのような記事に興味があるか」との調査項目では「国内の突発的な事件」「重大な人事異動」「国家の政策と法令」「批判報道」「腐敗追及」が上位を占めた。

 こうした調査から得られる新聞の方向性は、改革?開放前期の繰り返しともいえる。前期と決定的に違うのは、市場経済の進行と広告の増大が改革実現のための物質的条件を与えたという点だ。90年代における中国マスコミの発展の舞台裏を明らかにした『媒体中国』の筆者、劉勇はその方向性を「新聞の産業化」という言葉で表現している。「1999年、中国国内の新聞業界の広告収入はほぼ110億元に達し、83年の145倍になる。新聞業界の産業化の趨勢は日増しに強まっている。ある統計では、90年代前半5年間の広告収入の年平均増加率は60.9%で、5年間に5.7倍に増えた」という。(注18

 改革の方向性とは、当局の宣伝を目的とした新聞ではなく、読者のニーズに答える情報満載の、地域性、速報性を備えた新聞の発行である。それは90年代後半に、成都、武漢、広州など各地で、「都市報」の刊行という形で現れた。また既成の「晩報」「青年報」が同様の傾向の新聞に生まれ変わった。新聞は従来、郵便局で契約し、郵便局が配達するのが通例だったが、こうした新聞は、新聞社が独自の販売網を整備し、景品付きや値引きなどで激しい販売合戦を演じながら部数を伸ばしていった。「人民日報」も、上海地区で「華東版」、広東地区で「華南版」を発行するようになった。中国は広大な国土を持つ国だけに、中央の新聞も地域のニュースを盛り込まなければ、広告面でも販売面でも取り残されてしまうことになる。裏返せば宣伝機関の時代なら、人民日報は党の機関紙であり、中央紙、全国紙と称することができたが、市場経済時代に入って、北京に鎮座しているだけでは済まされなくなった。(注19

新聞間の競争が激化し、高度成長とはいえ、弱小新聞は経営が悪化し、当局も新聞の整理統合=集団化の方針を示す。一部には株式化を進め、株を公開したり、民間からの投資を引き込む新聞社も現れた。また有力新聞を中心に各地で集団化の動きが進んだ。

広東省では「広州日報」集団、「南方日報」集団、「羊城晩報」集団が形成され、三つ巴の戦いを演じている。上海では「文匯報?新民晩報」集団と「解放日報」集団が激しい競争に入って、朝刊、昼刊、夕刊と、一日3回発行する新聞まで現われた。9910月南京では、激しい価格合戦の結果、通常価格の5分の1、一部0.1元(日本円で約1円50銭)という価格の新聞まで登場し、最終的に当局が3角という最低価格を設定して収拾に動いた。 

 C.競争時代に入ったテレビ

本論は新聞を中心に論じているので、テレビメディアの変化については、報道の自由との関連でのみ触れることにする。80年代、中国のテレビ事情は、中央テレビ局と地方のテレビ局の二本立てであり、上海、広州、北京などの大都市では、第2、第3の地方チャンネルがあった。しかし、80年代後半から、衛星放送や有線放送の普及で、多チャンネル化が進行する。98年段階で有線テレビの加入所帯は7700万を数える。一般家庭では、海外の衛星放送の受信が規制されており、衛星放送やケーブルテレビ局を通して、他の地方のテレビ局番組を視聴するという形で多チャンネル化が進んだ。その結果、テレビ局間の競争も始まった。ここでも広告の増加が大きなエネルギー源になっている。

『媒体中国』によると、地方テレビ局の先兵となったのは湖南省のテレビ局で、経済先進地の広東や北京で、番組セールスのための展示会を開き、冠付きの番組を広めている。94年に開局した湖南経済局の場合、開局にあたって1000万元の銀行ローンと民間資本の投資1000万元でスタートしたが1年目で3000万元、3年目で9000万元、99年には1億元の収入を確保した。同局の呂煥斌副局長は「わが国のテレビ局の機能は長らくうまく開発されてこなかった。以前は主に報道の機能であり、世論を導くという作用であった。しかし、テレビには実際にさらに娯楽という機能ある」と述べる。「同局の管理層には他の既成テレビ局と違って、基本的にどのような番組を開発するのか、どう経営するかの決定権がある」という。(注20)したがって売れる番組を制作し、湖南省という一地域だけでなく中国全土に売り込むということになる。同局制作の「快楽大本営」「?(字解き おうへんに故のつくり)瑰之約」はそれぞれ北京で27%、25%の視聴率をあげた。

 こうした傾向は娯楽番組だけでなく報道番組にも現れている。中央テレビ局の夜のゴールデンタイムに放映される「焦点訪談」は、官僚の腐敗やお役所仕事、さらに偽ブランド問題、環境破壊などの社会問題を、現場に分け行って取材し、報道するという従来の中国のテレビ番組では考えられないスタイル、内容で、大きな反響を呼んでいる。この番組は94年に始まり、30%前後の視聴率を誇っている。9810月には、朱鎔基首相が同局を訪問して、この番組スタッフと会見し、揮毫嫌いで有名な朱首相自ら「世論監督、群衆喉舌、政府鏡鑑、改革先鋒」としたためた。「世論を監督して、大衆の声を代弁し、政府の鏡となり、改革を先導する」という趣旨である。この「群衆喉舌」は改革前期の結末で批判を浴びた「人民性」を思い起こす。

 この番組にもおのずと限界があるし、ニュース番組は相変わらず、要人の外遊や会見を主な項目とし、経済や社会の話題も政府の宣伝臭が強い。しかし、この番組の成功は、当局を社会監督する上で、メディアの役割がいかに重要であるかを示したし、朱首相がこれを称えたことで、報道改革に向けて明るい光を射したといえよう。

 また特筆すべきは、98年のクリントン大統領の中国訪問にあたっては、江沢民主席との共同記者会見が、中継でそのままオンエアされたことである。会見内容にはチベット問題など国際社会の中国に対する批判的な立場がストレートに表明された。

 D.インターネット報道

 90年代、とくに95年以降の中国メディア界の特徴はインターネット報道が急速に発展したことである。インターネット利用者が年々倍増し2000年までに2000万人を超えるほどとなり、主要な新聞やテレビ、さらにインターネット接続業者がホームページでニュース報道を開始している。注3の指摘ように、995月に発生したNATO軍機による在ユーゴスラビア中国大使館の誤爆事件でインターネット報道が定着した。

インターネットは報道面で新しい傾向も生み出した。一つは、これまで完全に当局の管轄下にあった新聞、テレビ、ラジオ以外のメディアによる報道が始まったことを意味する。さらに注2の指摘のように、読者がネット上で自由に意見を発表する場が与えられたし、さらに読者自身が情報を発信することにもなった。(注21

インターネット報道に関しては国際的な競争なども想定され、すでに上海などで新聞社とテレビ局というメディアを超えた共同出資の配信会社も設立され、この面でもメディアの産業化の趨勢が現われている。

 E.報道改革論議の再燃

 90年代以降のメディアをめぐる以上のような変化は、当然報道改革の論議を再燃させるのに十分であった。983月の全人代では、広東省の代表が「新聞法」の早期制定、公布に関する議案を提出し、32人の代表が共同提案者となって法案の早期作成を決議した。新聞業界の発展とともに、報道の社会監督機能の保証をどう図るのか、逆に名誉毀損など報道による人権侵害をどう法律的に解決するのか――など、暫定規定では処理できない問題が数多く生まれてきており、新聞法論議を先送りできなくなったのである。翌年の全人代では、朱鎔基首相が政府活動報告の中で、「正確な世論の動向を堅持し、世論による監督の強化と報道メディアの自律メカニズムの確立を図らなければならない」と指摘した。

 995月には、広東省珠海市で新聞法制定の先駆けともいえる「新聞世論監督暫行規定」が公布された。規定は「世論による監督は社会を民主的に監督する重要な手段」と位置付け、国家の安全、機密に関わる問題以外は、共産党、行政、司法、事業機関、団体は取材を拒否できないとし、さらに事前検閲も禁止した。その一方でメディアの責任者は報道の公正と客観性を確保しなければならないと規定している。中国の改革は、まずモデル地域で試行し、のちに全国に拡大させる方式を取っている。2000年の中華全国記者協会の大会は珠海市で開かれた経緯を見ても、珠海方式が将来全国に拡大される可能性があり、その動向を見守る必要があろう。

2、メディア変容へのの当局の対応

 以上、天安門事件を分水嶺に、改革?開放期を二つの時期に分け、メディアの動向を概観してみたが、事件による改革論議の中断にも関わらず、宣伝機関としてのメディアの役割が市場経済の進行とともに、大きく変容せざるを得ない状況にあることが確認できたといえよう。

 中国当局も新聞法制定の必要性を認め動き出すなどの対応も見せている。しかし、変化のテンポや一部の動きをめぐって、当局には依然、強い警戒感がある。またアメリカを中心とする国際社会との関係如何によって、前向きの対応にもブレーキがかかり、それが報道内容にも大きな影響を及ぼすことになる。

 A.規制の確認と新たな規制の設置

 改革?開放後期の動きの中で、中国当局は、以下のような現象を口実に、マスメディアを宣伝機関として繋ぎ止めようとしている。

1)           市場主義の中で、都市報など「小報」を中心とした、事実歪曲、人権侵害の報道。記者が謝礼をもらって記事を書く「有償新聞」の傾向。

2)           新聞経営の企業化、株式化の中で生じた民間資本の経営参加。

3)           インターネット報道における非新聞産業の参画。著作権の侵害。

 市場経済という誰もが抵抗できない潮流の中で、当局は当面、前節で紹介したようにメディアの新しい動きを、黙認、追認してきた。当局自体に新たな時代に対応する抜本的な報道政策がないためだ。その結果、逆に、一部に行き過ぎが生じると、従来の観点、規則を持ち出して、規制に乗り出すことになる。

例えば、1)の現象については、80年代後半から毎年のように有償新聞の禁止規定を出し、これに加えて99年、「虚偽、事実無根報道の処理規定」を公布する一方、発行元である親会社の「大報」を通じて指導を強化している。だが、職業道徳を強調するだけでは、なかなか解消しない。

2)に関しては、93年、四川省の省体育委員会傘下の「四川体育報」が民間資本を入れ、社名変更や人事権の譲渡まで進めたため、国家新聞出版署から厳重処分を受けた。(注22)新聞の発行は、これを管理する上部の機関、単位を必要としており、国家新聞出版署その機関、単位を通じて報道を規制している。上部の単位として認定されるのは、党や政府あるいはその外郭団体であり、民間企業が新聞を発行できない仕組みになっているのだ。しかし、その後も、発刊の権利である「題字」を売り出したり、広告部門を子会社にして民間資本を取り込むなどの動きが出ている。これに対して、当局は99年、?非報道出版機構は報道活動に従事できない?とする通知や出したり、「報道?出版会社は国有資産であり、その発刊時の個人、集団による資金調達は、債務、債権で処理する」との方針を再確認し、民間資本を新聞?出版に進出させない政策を貫いている。(注23

3)についても、200011月、国務院が「インターネットホームページのニュース掲載業務の管理暫行規定」を公布して、報道機関として認定されていない機関によるニュース報道の規制に乗り出した。掲載されるニュースは、報道機関として認定された通信社、新聞社の配信した記事に限り、著作権を購入した上で、発信できるとし、さらに編集者に、報道実務経験者の採用が必要とした。あくまでも当局の指導が及ぶ形を確保しようという姿勢が見える。

B.タブーとしての政治、外交報道

以上のような規制に加えて、中国では、政治、外交などの重要ニュースについては、従来から一貫して報道規制が敷かれている。

魏永征著『中国新聞伝播法綱要』(注22参照、以下『綱要』)によると、重要な政治関係ニュースとは「共産党と国家の指導機関の重要な政策、会議、事件及び文献さらに関係指導者の重要な公務活動」であり、「この種のニュースは必ず国営通信社である新華社が統一的に配信し、共産党の機関紙『人民日報』が掲載の責任を担うというのはわが国の古くからの伝統である」という。(注24194912月に早くも「中央人民政府およびその所属各機関の重要ニュースを統一的に発布することに関する暫行弁法」が出ており、現在もこの法令が踏襲されている。『綱要』は「87年党中央宣伝部などの部門による『新聞報道を改善するためのいくつかの問題に関する意見』においても新華社を『党と国家がニュースを発布する機関』と重ねて表明し、その主要な機能として、正確にタイムリーに党と政府の重要なニュースを統一的に発布する責任を負っているとしている。その上で、重要ニュースとは①党と政府の重要な政策、決定②重要文献③重要な会議ニュース④中央の指導者の重要活動⑤中央指導者と外国賓客との会見、会談時に発表される国内外の重要問題に関する談話⑥重要な人事の任免⑦指導者の逝去などである」と指摘している。また主な要人に関する記事、番組作成についても、党中央宣伝部と国家新聞出版署が、90年に「党と国家の主な指導者を対象とする出版物の管理を強化する規定」を出し、事前検閲などの厳格な規定を設けている。

こうした政治、外交問題報道に関する法令、規定は、当局側の発表の方法を規定しているというより、多様な報道、自由な言論を規制していると考えるべきであろう。例えば2000年3月台湾で実施された総統選挙で、野党候補の陳水扁氏が当選したが、中国の新聞では、すべて新華社配信のニュースで、一面の右下に日本で言えば2段程度の小さな扱いで統一されていた。

3、産業化と規制のはざ間で歪む世論形成

1978年末の改革?開放路線導入以来の中国マスメディアの変容を見る時、マスメディアの「市場化」「産業化」の方向は疑いない。これは当局でさえ否定のしようのない現実であり、メディアの集団化を指導、推進しているのも、当局自身である。また、社会の多様化、党?政府幹部の権力腐敗の進行から、マスメディアの「社会監督」機能の強化も大きな課題となっている。その結果として、当局の意志とは独立した「世論」が形成されるのは当然の帰結であろう。もちろん、依然として一党独裁体制が続く中国であるから、その「世論」が当局と対立するといった性質ではないだろうが、当局の立場に立っていたり、あるいは当局の一宣伝機関であっては、「監督」機能を発揮できるはずがない。

しかし、他方で、マスメディアを当局の「宣伝機関」として繋ぎ止め、利用するという中国共産党の伝統的な方針も、間欠泉のように甦ってくる。それは多様化するあるいは「市場化」に伴って多様化せざるを得ないマスメディアの論調を、画一報道の枠に閉じ込め、ある意味ではマスメディアの発展を阻害する要因になっている。

このギャップは決定的であり、中国のマスメディアのあり様を大きく左右し、ようやく始まった「世論形成」にも歪んだ傾向をもたらすことになる。

とくに近年、台湾問題をめぐって、アメリカや日本との関係が後退し、さらにWTO加盟交渉の停滞、NATO軍機による中国大使館爆撃事件などによって、中国国内に孤立感が深まる時、その歪みは一段と激しくなる。

というのも、多様な、多角的な報道が規制されている政治、外交報道において、マスメディアにとって「市場化」の「売り」になるのは、「衝撃度」「センセーショナリズム」「愛国主義」「ナショナリズム」であるからだ。

日本やアメリカなどに海外とくに西側先進諸国に関する報道は、もともと総合的な内容ではないが、中国の孤立感が高まると、「過去の侵略」や「覇権主義」、「腐敗した資本主義」といった側面が強調され、読者の歪んだ「対外イメージ」を形成する。

国内の権力腐敗の追及報道は著しい規制の中にあるが、対外報道においては、「愛国主義」の看板がかかっていれば多少の行き過ぎは許される。新聞スタンドを飾る「小新聞」はそうしたセンセーショナルな報道が「売り」になる。

9912月、第9回中国新聞賞の表彰大会で同年の報道を回顧、総括した徐光春?党中央宣伝部副部長(元光明日報編集長)は「広範な報道関係者は、党中央の部門の下で、建国50周年、マカオ返還の二つの重大な式典を報道し、アメリカを筆頭とするNATOによるわがユーゴスラビア大使館爆撃という蛮行、邪教「法輪功」と李登輝(台湾総統=当時)の「二国論」に対する三大闘争を展開した」と賞賛した。

宣伝を目的とした画一的な対外報道によっては、総合的な国際理解に基づいた健全な世論の形成は困難である。冒頭、紹介したような朱首相に対する批判にもつながる。もちろん、中国国民の世論形成のチャンネルは、マスメディアだけではない。したがって、反日、反米であふれる中国メディアのインターネット論壇においても、冷静な意見も書き込まれている。その声はかき消されるほど小さい。

21世紀における中国の大国化は疑いないだろう。WTOに加盟し、国際社会との関係は一段と密接になる。それに伴って、ますます摩擦の種も増加する。その際、冷静な対応と処理が必要になり、そのためには健全な世論の形成が不可欠である。

中国マスメディアの「宣伝機関」からの脱皮をめぐっては、改革?開放の展開という国内的要因に加えて、今後国際社会からも圧力が加わっていくだろう。


注1 20001015日付日本各紙。この発言は実際の放送では中国側の要望でカットされた。

注2 南京大虐殺63周年の20001213日、人民日報のインターネット版「人民網」の「強国論壇」では、同事件をめぐる南京大学、北京大学の研究者と読者の座談会記事を掲載して、読者の声を募る特集を組んだ。折りから南京市内で、記念碑の移設をめぐって群衆が開店直前のホテルを襲撃する事件が発生し、「人民網」およびホテル襲撃事件を報道した民間のインターネット接続業者が設置する「新浪網」に数百という読者の書きこみが寄せられた。その大半が反日世論であった。

注3 この誤爆事件では、犠牲者が新華社、光明日報特派員であったため、メディアが激しく反応した。とくに発生場所が海外であったこと、インターネットが中国国内で普及し始める時期に重なり、二つのメディアに加え、人民日報がインターネット版で事件を速報し、現場写真や関連資料、サイトもインターネット上で、公開され、本格的なインターネット報道の幕開けとなった。

注4 朱鎔基首相をめぐって、インターネット上で批判が多く展開されるのは、改革を強力に推進する同首相に対する不満が保守層に根強く、その保守層が依然、党の宣伝部門を牛耳っており、首相批判を宣伝部門が黙認しているという事情も働いているためと見られる。

注5 朱家麟『現代中国のジャーナリズム』(田畑書店、1995年)1718ページ。こうした大胆な分析は、中国国内の出版物で見ることはできないだろう。

注6 張之華『中国新聞事業史文選 公元724年―1995年』(中国人民大学出版社、1998年)886ページ

注7 前掲『現代中国のジャーナリズム』271272ページ。

注8 胡績偉『従華国鋒下台到胡耀邦下台』(華国鋒の失脚から胡耀邦の失脚まで」(香港?明鏡出版社、1997年)191ページ

注9 8310月、胡喬木は鄧力群を伴い、人民日報社に赴き、幹部たちを前に、胡績偉社長の解任の事情を説明する。だが、その中でも、まず胡社長の功績を述べざるを得ない。(前掲『従華国鋒下台到胡耀邦下台』244ページ参照)全面批判では、文化大革命時代のような「敵対的な対立」を繰り返すことにつながるし、胡社長を起用した党の責任も問われることになるからだ。これは一つの改革?開放路線のジレンマであり、改革?開放路線のその後の展開においても、同じ問題が繰り返される。

10 前掲『現代中国ジャーナリズム』によると、編集長の欽本立は、毛沢東が提唱した50年代半ばの「百家争鳴運動」の中で、共産党を批判して、毛沢東の逆鱗を買い、「反右派闘争」の発動を招いた「上海文匯報」の当時最高責任者だった。

11 矢吹晋ほか『天安門事件の真相(上)』(蒼蒼社、1990年 )30ページ

注12         李瑞環、江沢民演説とも、前掲『中国新聞事業史文選』に所収。

注13         前掲『現代中国のジャーナリズム』106ページ

注14         馬立誠ほか『交鋒』(今日中国出版社,1988年)174ページ。

注15         「南方講話」と呼ばれる演説で、『鄧小平文選第3巻』(中国人民出版社)に所収。

注16         この年、米「タイム」「ニューズウィーク」英「エコノミスト」などは、鄧小平講話に呼応するかのように、中国経済大国論を掲載し、中国ブームを演出した。

注17         喩国明『壇変的軌跡』(中国中央編訳出版社 1996年)93ページ以下「中国報業:面対結構性転換」参照

注18         劉勇『媒体中国』(中国四川人民出版社、2000年)252ページ

注19         人民日報の邵華沢総編集(当時)は90年、読売新聞社の招待で来日した際、日本の全国紙がいずれも地方版を発行している点に強い関心を示し、帰国後改めて地方版の発行について調査するための代表団を派遣してきた。

注20         前掲『媒体中国』257ページ

注21         1986年冬に全国で発生した学生による民主化要求デモでは、学生たちはノートに手書きでスローガンを書いてビラにした。89年の天安門事件ではやっとガリ版刷りのビラが巻かれた。99年、法輪功事件では、海外から国内の会員たちに電子メールで指示が出ている。当局によるメディアの独占体制は確実に崩された。

注22         魏永征『中国新聞伝播法綱要』(中国上海社会科学院出版社、1999年)327ページ

注23         2000117付「中華新聞報」第6ページ

注24         前掲『中国新聞伝播法綱要』135ページ

リンク集

お問い合わせ-ホームページを設定 ―お気に入りー広告掲載―著作権声明
著作権 2006 中国日中マスコミ報告ネット版
住所:中国北京市朝陽区朝陽北路199号摩碼ビル612室 電話:(86)10-8597―8053或いは5129―4960
京ICP備05057290